「世界平和の塔」を通してミャンマー・日本・タイの友好を願う
ヤンゴン日本人学校・前校長 置田和永
私は、30数年の教員生活の中で、文科省海外派遣教員として、これまでイラク・ミャンマーと滞在期間計6年間の海外勤務をしました。1回目は、数ある赴任先の中、私たち家族に待っていたのは、イイ戦争渦中のバグダッド日本人学校でした。そして2回目は、その30年後、アジア太平洋戦争時の激戦地であったミャンマーでした。
その2カ国の外国生活では、まだ第2次世界大戦の後遺症が残り、戦争と平和について感じることが多くなりました。昨年3月にそのミャンマーから帰国し、戦争体験者の記録を収集して読みあさり、日本人の1人として、もう一度アジア太平洋戦争を見つめ直し、日本人の贖罪として受け止めることの大切さを痛感してきました。そして、とりわけ外国人犠牲者を出した旧泰緬鉄道のミャンマー側とタイ側の2カ所の基幹駅に、世界平和の塔「自他平等碑」を建立し、無念にも異国の地で散っていった兵隊さん達の声なき声に耳を傾け、鎮魂のプロジェクトを立ち上げました。
まずはミャンマーのどこに建立したらよいか、いろいろと現地調査をしましたが、最終的に決定した場所は、今は廃線となり跡形もない泰緬鉄道の終着駅モン州のタンビュザヤの町でした。実は日本ではあまり知られていませんが、アジア太平洋戦争の悲劇の一つが、この泰緬鉄道敷設工事の時(昭和17年7月から昭和18年10月)に起きました。当時の日本軍は、すでに戦争を維持していく戦力も兵糧も底をつき、制海権も制空権も連合軍の手中にあり、補給ルートも遮断されました。そこで軍事物資補給の生命線として、大本営から泰緬鉄道敷設の特命が出されたのです。
しかし当時ミャンマーとタイとの国境は現地人でも住めないほどの密林地帯で、マラリアやデングなどの巣窟になっていました。こうした劣悪な鉄道工事環境の下で、後に「死の鉄道」と命名されるほど、現地労務者・連合軍捕虜・そして日本軍鉄道隊においても、加えて栄養失調と重労働で免疫力のない中、コレラや赤痢などの伝染病が蔓延し、数万人を超える未曾有の犠牲者が出してしまうことになりました。そして泰緬鉄道を残したまま終戦を迎えることになります。・・・・・
私たちのこのプロジェクトは、昨年10月から3月までの半年間、頼りになるミャンマー人を介して、数回に及ぶモン州政府との折衝で、とうとうモン州の大臣にも私たちの意が届き、また幸運にも大臣に差し出していた平和の塔の模型が、ティンセイン元大統領の目にも留まり、認可されました。
ただ、残念ながらタンビュザヤの博物館前には、すでに上の写真のような日本兵が現地人を酷使している反日的なモニュメントができてしまっていました。私が取材した元日本軍鉄道隊で大阪在住の木下幹夫さん95歳は、少なくとも自分達のタンビュザヤでの鉄道工事現場では、そのようなシーンはなかったと断言されました。そこで在ミャンマー公館に出向いて陳情もしていただきました。しかし、公館からは残念ながら自分達でモン州政府に働きかけてほしいとかわされてしまい、木下さんは落胆して帰国されました。ただこのまま放っておくと、例の慰安婦像と同じように一人歩きし、既成事実となってしまいます。そこで危機感を持った私は、善は急げにて、モン州政府や泰緬鉄道博物館長に日本人の戦後の平和主義を理解していただきながら、世界平和の塔建立と平行して反日的モニュメント撤去運動をモン州政府と折衝していきました。お陰様で「捨てる神あれば拾う神あり」の如く、モン州政府のご高配とミャンマー人スタッフの尽力で、反日モニュメントが平和時に自主的に撤去され、短時間で無事すべて今回のプロジェクトを終了することができました。(詳しくは、インターネットで「自他平等碑」と検索すると除幕式の画像が見られます。)
さて、泰緬鉄道建設当時は、戦時下で当然のように人命より大本営の命令が優先されました。しかし、日本軍は完成後に、そこで不運にも人柱になってしまった全ての工事関係者に対して、供養のための慰霊碑や寺院を建てました。泰緬どちら側の慰霊碑も昭和19年2月建立と刻まれ、全ての犠牲者の慰霊のために建立されました。特にタイ側の慰霊碑は、日本軍鉄道隊員の名で犠牲になった東南アジアの労務者と連合軍の捕虜に対する鎮魂となっています。当時南方軍司令部では反対もあったようですが、同じ厳しい作業現場で頑張って犠牲になった外国人に対する慰霊碑が建設現場を指揮した日本軍の鉄道隊によって建てられたのです。戦時下とはいえ、そこには『自他平等』の仏の心を読み取ることができます。ただ、国運をかけての人海戦術突貫工事だったので、捕虜の人権は手厚く保障されているジュネーブ条約によれば、全て虐待になってしまう劣悪な環境であったことは歴史的事実として弁解の余地はありません。その結果、戦後の軍事裁判では日本軍の32名が多くの犠牲者を出した責任をとられ、問答無用、無念にもシンガポールのチャンギ刑務所で帰らぬ人となりました。
現在、タイ側にも連合軍側で建てられた泰緬鉄道博物館がありますが、館内はすべて日本軍の虐待シーンで埋められています。日本側で誠実に戦後処理していれば、あのような反日的モニュメントはがされてこなかった姿でしょうか。今回のミャンマー側で撤去されたのは奇跡と言えます。
戦後復員できた兵隊さん達の多くは、自分達だけ生きて帰ったことへの自虐史観で戦争の実体験を封印し、戦争の真実を語る人はほとんどいませんでした。しかし、日本国民の努力で戦後10年経った頃には「戦後は終わった」と言われるようになり、国民生活にもゆとりが出てきた頃、自分の贖罪として戦地に慰霊訪問される復員兵や遺骨収集の親族も出てきました。
そのお一人が大阪在住の木下幹夫さんでした。木下さんは、28回に及びミャンマーへ慰霊と謝罪の旅に訪れ、モン州タンビュザヤの町では多くの現地の人から「アぺー(お父さん)」と呼ばれるまでになられました。今年の1月4日、ミャンマーの独立記念日に行われた新泰緬鉄道博物館落成式には、在日公館へ何も知らされることない中、日本人で招待されたのは木村幹夫さんお一人だけでした。木村さんはモン州知事と同格で挨拶もされました。
私たちは反日モニュメント撤去のこともあり平和の塔除幕式を急ぎました。折しもミャンマー政府の政権交代も重なって、結局私たちが新モン州政府を招待し、私たちの主導で水かけ祭り休暇の終わったミャンマーの正月明け4月21日に世界平和の塔の除幕式を挙行することになりました。
日本からは岐阜市願成寺住職をはじめ賛同者を募り、日本人は総勢18名で建碑法要を執り行ないました。お陰様で発足したばかりのモン州政府高官である総理大臣をはじめ、100名以上の政府関係者と地元タンビュザヤの町の方にも参加していただき、無事終えることができました。
4月21日、その除幕式の挨拶です。
アーロン ミンガラーバー、皆さん今日は。
本日は新しい年の始めのお忙しい中、私たちのためにこのように多くの皆様にご来場いただきありがとうございます。また、モン州知事ミン・ミン・ツン様をはじめ多数のモン州政府高官の皆さんにご列席いただき心よりお礼申し上げます。私はアジア太平洋戦争中に日本軍鉄道隊が建設した泰緬鉄道の記念博物館が新しくできるという情報を一年前に木村幹夫さんから聞きました。木村さんは1月4日にこの博物館のセレモニーに日本人として招待された95歳の元日本軍鉄道隊員です。今回ご一緒するつもりでいましたが、体調が優れず大事を取って欠席されました。皆さんによろしくとのことでした。私たちが世界平和の塔を建立したことをいちばん喜んでいただけたのが木村さんです。
日本が連合軍を相手にして起こしたアジア太平洋戦争の時は、ミャンマーの独立を願い、ミャンマーの皆さんとイギリスの植民地からミャンマーを解放しました。しかし、同時にその時はミャンマーが戦場になり、たいへんなご迷惑もおかけしました。ただ負け戦になった時も多くのミャンマー人の方から食べ物をいただいたり、逃げている時にかくまっていただいたりして、多くの日本の兵隊さんが助けられたことも聞いています。日本人は今でもミャンマーの皆さんに心から感謝しています。
実はこの泰緬鉄道建設の時には、すでに日本はすべてにおいて日本より何十倍も国力のあるアメリカを中心とした連合軍との戦いで敗戦の色を濃くしていました。戦争に勝つことだけを信じて、食糧も軍事物資も少なく、たいへん劣悪な環境の中で鉄道工事を強行し、貫通まで少なくとも5年以上はかかるとされていた工事をわずか1年と3ヶ月足らずで完成させました。その間、東南アジアの労務者や連合軍捕虜の皆さんにはたいへん多くの犠牲者が出ました。この町に残っている慰霊碑は、日本軍が亡くなったすべての人の霊を慰めるために泰緬鉄道が完成したときに日本軍の鉄道隊が建てたものです。
戦争中とはいえ、多くのミャンマー人の皆さんにも多大なご迷惑をおかけしたことをこの場をお借りし、日本人の一人としてお詫び申し上げます。今、日本は時々地震に見舞われたいへんなこともありますが、この70年間一度も戦争をしたことはありません。現在は世界でいちばん平和な国・日本です。しかし、私たちのこの平和は、アジア太平洋戦争で亡くなった人たちからいただいた尊い平和と考えて、心より先人に感謝しています。今回はこの泰緬鉄道博物館に世界平和の塔の建立をお願いしたのは、アジア太平洋戦争でご迷惑をかけたミャンマーの皆様に対するお詫びと日本人としてこの町から世界に向けて平和の尊さを訴えたかったからです。この機会を私たちに日本人に与えてくださったモン州政府の皆様、博物館関係者の皆様、そして今日お集まりいただいたタンビュザヤの皆様に心より感謝申し上げます。
これからこの町にも日本からも多くの観光客が訪れることになりますが、日本人は皆ミャンマーの人は心が広くて、とっても心の優しい人たちだと思っています。その時は「ミンガラーバー」「こんにちは」と声をかけてあげてください。
本日は誠にありがとうございました。チーズティンバーデー カミャー。
実は元連合軍捕虜の皆さんの中には、ずっと日本政府が戦後処理をしていないとし、現在も補償や謝罪を求めているという現実があります。また、戦後に慰霊碑一つも建てられていない東南アジアの労務者だった関係者の皆さんの中には、自国にも是非鎮魂の慰霊碑を建てほしいと願っている方もおられます。現在私たちは、まずはタイ側にもう一つの世界平和の塔を建立するプロジェクトを立ち上げます。その場所は、1957年のアカデミー賞受賞映画「戦場にかける橋」の舞台ともなったタイ西部に位置するカンチャナブリ市です。その町のメクロン河に面したチャイチャムポン寺院の一角にJEATH(日・英・豪・米・泰・蘭の頭文字)戦争博物館があります。そこで平成29年11月に除幕式を執り行なう予定です。
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