日本ミャンアー友好協会の沿革概要

当友好協会は、1970年大阪万国博覧会のナショナル・デーの一つ 「ビルマ・デー」に、全国から集まったビルマ戦線の帰還兵が中心となって結成されました。 そしてミャンマー(ビルマ)およびミャンマー(ビルマ)人を こよなく愛する「日本ビルマ文化協会」を母体として発足しました。 当友好協会は、両国の永遠の親善と友好を目的とするボランティア団体として、50年近い歴史を持つ、外務省の認可を得た社団法 人です。

本部事務局:     -454-0932 愛知県名古屋市中川区中島新町
    3-710(岩内健二 方)
    TEL 052-363-2358(ホームぺージ)
    http://mjbdmyanmar.com/jmfa/index2.html


2015年(平成27年)4月現在

「(一般社団法人)日本ミャンマー友好協会」 45年のあゆみ

  • 1970年(昭和45年)、大阪万国博覧会EXPO‘70 の「ビルマ・デー」を契機として全国から参集したビルマ戦線の元帰還兵約2,000名が中心となって、文化交流を通じた両国間の親善友好の機運が盛り上がった。
  • 1972年(昭和47年)「京都都ホテル」にて、約250名による「(社)日本ビルマ文化協会」創立総会が開催された。
    • 第2代目の絶対的会長:塚本幸一氏(元ビルマ戦線従軍兵・「㈱ワコール」社長・京都商工会議所会頭)は、以後26年間、公私にわたり当協会の隆盛に貢献された。
    • 現会長:岩内健二は創設からの唯一のチャーター・メンバー(設立会員)として、初年度から理事に就任し、現在まで45年間にわたり活動を継続。
  • 当初の会員数は、約1,200名。会員が多く居住する京阪神・東海・首都圏の3地区に「関西支部」「東海支部」「関東支部」が設立された。当初は支部を中心とした活動が中心であった。
  • ビルマの国名変更に伴い、「(社)日本ビルマ文化協会」は、1989年(平成元年)に「(社)日本ミャンマー文化協会」に改称。さらに広くミャンマーとの友好を目的として1997年(平成9年)に、「(社)日本ミャンマー友好協会」と、3度の改称を行なって、「文化部会」と「経済部会」の二頭立て組織として、現在に至っている。
  • 1998年(平成10年)塚本幸一会長病死や、同時期に多くの戦友会世代会員の死去が続き、当友好協会は、急激に衰退の一途を辿っていった。
  • また、「関西支部」と「関東支部」は、日常の地道な活動を全く実施しなかったため、6年前の2009年(平成21年)に、両支部は完全に消滅した。 そのため、唯一真面目に活動していた「東海支部」は、定款に基づく手続きを経て名古屋への本部移転宣言を行ない、友好協会自体の消滅はかろうじて回避された。新役員として、会長:岩内健二、副会長:鬼澤浩二、専務理事:石丸富治、監事:中西峯毅、が就任し、新体制で友好協会再建にとりかかつた。
  • このように、名古屋の「(一般社団法人)日本ミャンマー友好協会」は協会の定款に基づく正式手続きを経て唯一の正式な本部として、現在も順調に機能している。同じ名称を名乗る東京の団体とは異なり、決して「解散」することなく、1970年の創設以来、真面目に親善友好活動を継続してきた。そして、2015年4月19日(日)には、定款に基づく「第42回・通常総会」を開催し、全議案は可決承認された。
  • 「東海支部」は、30年前に設立された「(財)名古屋国際センター」での定例交流会が可能になったため、センターでの交流会は、合計延べ約160回、延べ約7,500名もの多くの参加者を迎え、ビルマ料理を一緒に作って料理を楽しみながら親善交流活動を継続した。 その、国と政治の違いを超えた相互理解と友好の輪は、計り知れない無形の財産となり、現代に素晴らしい影響を残し続けている。
  • これら長年にわたる親善友好活動の功績により、1992年(平成4年)に「東海支部」は、「愛知県国際交流推進功労者表彰」(愛知県知事表彰)を、さらに2001年(平成13年)に、友好協会自体が「外務大臣表彰」を受賞した。
  • 2020年(平成32年)には「結成50周年」を迎えられるよう、「(一般社団法人)日本ミャンマー友好協会」(会長:岩内健二)は、唯一の正式な本部として、今後も日本とミャンマー両国間の親善友好活動を、積極的に継続していく。

1965年(昭和40年)5月1日(土)に、私は「ラングーン日本人学校」に赴任しました。
だから、本日がまさに「満50年」です。

2015年(平成27年)5月1日(金) 岩内健二


下記写真は、平成21年度・日本ミャンマー友好協会東海支部総会後の記念写真です。
名古屋国際センター様のホームページにも紹介されています。

http://www.nic-nagoya.or.jp/japanese/nicnews/archives/945

「(一般社団法人)日本ミャンマー友好協会・創立45年・沿革史 / 正編」

 1970年(昭和45年)4月17日(金)、曇天の下、 「大阪万国博覧会 EXPO‘70」 の「ビルマ・デー」に、ビルマ戦線の元帰還兵らを中心としたビルマを愛する日本人約2,000名が、各隊旗を掲げて、全国から参集。 ビルマ連邦の国家元首:ネ・ウィン革命評議会議長を、会場「お祭り広場」にて歓迎する。 これを契機として、文化交流を通じて両国間の友好親善の機運が盛り上がった。 現会長・岩内健二も戦友会員のバスに便乗して「ビルマ・デー」に参加した。 「ビルマ館」は、現在のヤンゴン市内のカンドーヂ湖に浮かぶ「カラウェイ・パレス」の原型となった瀟洒な「竜王船」の形の展示館。

 1972年(昭和47年)3月12日、京都市内の「都ホテル」にて参加者総数約250名による、「日本ビルマ文化協会」創立総会を開催。 ビルマ連邦のウ・チッ・コッコー大使を来賓に迎えて、会長以下、新役員を選出。 初代会長に、正木清(元従軍兵・医師)が就任したが、半年で退任。 副会長・酒井栄一郎/馬淵祐一/小谷隆英一/小菅信一/甲谷秀太郎、の5名。 理事・石塚寿男一/山田元八一/岩内健二/梅原保/内田健一/塔本成幸/石村卓/多田光徳/稲垣清/保科賢一、ら26名が就任。 現会長・岩内健二は、チャーター・メンバー(設立会員)であり、初年度からの唯一の生き残り理事として現在に至る。

 最初の本部事務所は、「大阪市南区長堀橋筋2-28」の、酒井栄一郎・副会長宅に設置。 1972年(昭和47年)5月、「日本ビルマ文化協会報」創刊号を発行。以後、年4回を原則として約35年間発行を継続。その後、廃刊。

 1972年(昭和47年)10月、「日本ビルマ文化協会」第1回通常総会、京都にて開催。 以後、毎年輪番制により、東海支部(名古屋)、関東支部(東京)、関西支部(京都)が担当して開催。 約30年間にわたって正しいローテーションを守って総会が開催された。が、その後、関東支部と関西支部の消滅によって、10年前の2005年(平成17年)には、ローテーションは崩壊・消滅した。 2008年(平成20年)の第35回以来は、唯一活動を継続していた東海支部(名古屋)にて通常総会を開催し、当協会の解散・消滅はかろうじて免れている。

 創設当時に、「ビルマ識字教育への協力のため、謄写輪転機10台、および部品類」を寄贈。 1974年(昭和49年)11月、 ビルマ大水害義援金をビルマ赤十字社に贈呈。 同年、メルギー(メェイ)市大火災へのお見舞金を贈呈。 以後、競技用車椅子、障害者用車椅子の寄贈、ミッティッラ大火災への見舞金、医療器具購入資金、超音波診断機器、印刷機などの寄付行為を継続。 協会創設以来、約30年にわたって、毎年50万円相当の寄贈行為を継続した。 が、その後の戦友会員数の死去・減少に伴う財源不足により、寄付行為は廃止。

 1973年(昭和48年)1月、「日本ビルマ文化協会主催・親善訪緬団」 (1/7~1/17)  を派遣。 第1回は、ネ・ウィン大統領をはじめ文部省ニイ・ニイ副大臣など政府要人、および在ビルマ・鈴木孝日本国大使を表敬訪問。 以後74年、75年、77年、78年と、親善方緬団派遣。

 1974年(昭和49年)10月、 東京にて通常総会を開催。 第2代目には、絶対的会長・塚本幸一(元従軍兵・㈱ワコール社長・京都商工会議所会頭)が就任。 以後1998年(平成10年)6月に、脳梗塞のため77歳で病没されるまでの4半世紀にわたって、協会の発展に多大な貢献をされた。

 1975年(昭和50年)1月、日本政府による「ビルマ遺骨収集団」の派遣に際し、当協会員も多数同行。 以後、数次にわたり遺骨収集事業に参加。 同年、外務省より「社団法人・日本ビルマ文化協会」としての法人格を取得。 同年7月に発生したバガン地方の地震によるゴドッパリン・パゴダなどの遺跡修復への義援金を、ビルマ政府に贈呈。

 1979年(昭和54年)、世界初の日本語による本格的『ビルマ語辞典』 (大阪外国語大学教授・原田 正春氏、大野 徹氏の協力) により出版。  (1990年3月・再版発行)

 1979年年(昭和54年)12月、「青年ビルマ親善旅行団」派遣を実施。 以後、1990年(平成2年)までの、11年間にわたって、親善訪緬団の派遣を継続したが、会員数の減少に伴う財源不足により、廃止。 団長は、理事が輪番制で担当したが、いずれも脱会や死亡のため、11年後に本事業は廃止・消滅。 「日本青年に補助金を出してビルマを見聞させ、将来、若年会員を入会・養成・継承する」という初期の目的を達せられず、廃止に追い込まれた。

 1984年(昭和59年)3月に発生したマンダレー大火災への募金により、救急車3台をビルマ赤十字社へ寄贈。 以後、カレンダー用紙8万枚、ザガインの僧侶病院に寄付金を贈呈。 1988年(昭和63年)10月、国際協力事業団招聘のビルマ青年10名を京都にて2泊3日のホーム・ステイ受け入れ。

 1989年(平成元年)6月、「大阪市東淀川区西淡路1-1-9、614号」に、2度目の本部事務所を移転。 1990年(平成2年)、副会長・小菅信一、両国の友好親善に貢献したとして、外務大臣より表彰状を授与された。 長年の国際交流・友好親善に貢献したとして、東海支部は、1992年(平成4年)に「愛知県国際交流推進功労者表彰」(団体表彰)を受賞。また、会長・岩内健二は、1994年(平成6年)に「愛知県国際交流推進功労者表彰」(個人表彰)を受賞。 更に、2001年(平成13年)に、協会自身が「外務大臣表彰」(団体表彰)を受賞。

 1989年(平成元年)、外務省のビルマ国名変更に伴い、「日本ビルマ文化協会」は、「日本ミャンマー文化好協会」に名称を変更。 更に文化交流のみにとどまらず広くミャンマーとの友好を目的として、1997年(平成9年)に、「日本ミャンマー友好協会」と、3度の改称をして、現在に至る。 同年5月、塚本幸一会長の財力で、「京都市中京区烏丸通夷川上ル・京都商工会議所内」に、3度目の本部事務所を移転。 塚本幸一会長在世中は、専属事務局長・岡晃市を派遣・雇用したが、塚本幸一会長死去に伴い、解雇された。 1997年(平成9年)、「バガン仏教遺跡修復保存基金」を創設し、ティンロミンロ・パゴダの修復などに当てられた。 1998年(平成10年)3月、第1回「パゴダの国・ミャンマーこども絵画展」を大阪で開催。以後、東京・名古屋・京都・長野・北海道などで巡回展を、毎年開催する。

 1998年(平成10年)6月に塚本幸一会長病死後の10年間は、第3代目・保科賢一(元従軍兵・2年) ⇒ 第4代目・椿本照夫(椿本興業・半年) ⇒ 第5代目・内田 健(京料理店・2年) ⇒ 第6代目・池田正隆(僧侶・4年) ⇒ 第7代目・田崎 央(オムロン・2年)と、京阪神地区在住の5名が次々とタライ回しで会長に就任した。 が、いずれも無策・無能のため、協会は衰退の一途を辿っていった。 その後の本部事務所とは、「京都市中京区観音堂町466 ジュネス四条烏丸1階」は、郵便箱のみで実体のない架空・偽りの事務所である事実を隠蔽したまま、会員から年会費を7年間にわたって徴収し続けた。

 関東支部と関西支部の消滅によって、7年前の2008年(平成20年)には、定款に則り、唯一活動を継続していた東海支部(名古屋)に新本部を移した。 同年の第35回通常総会を盛大に開催し、当協会の解散・消滅はかろうじて免れた。 同年、会長:岩内健二、副会長:鬼澤浩二、会計:石丸富治、監事:中西峯喜、の新体制で、友好協会再建に取り組んだ。

 2009年(平成21年)、ミャンマー南部のデルタ地帯を襲って多大の犠牲者を出したサイクロン「ナルギス」救援のための街頭募金活動を名古屋国際センターの協力で実施し、累計500万円を越す義援金を、日本赤十字社とミャンマー大使館に寄贈した。 同年3月、ザガインに学校建設をされていた首相夫人の安倍昭恵さんを愛知県岡崎市に招いたイベント「愛は国境を越えて」のオープニングで、在日ミャンマー留学生24名が各民族衣装でのファッション・ショーを披露して好評を博した。 東海本部は、30年前に設立された名古屋国際センターでの本格的な定例交流会が可能になったことから、約26年間にわたり、合計延べ約160回の交流会、延べ約7,500人もの多くの参加者を迎え、ビルマ料理を試食しながらの相互理解と親睦を重ねてきた。 国や政治の違いを越えての「人対人」の付き合いは、計り知れない無形の財産となっている。

 本年2015年(平成27年)4月19日(日)、第42回通常総会を25名の参加で開催し、全議案は可決・承認された。また、現地カウンター・パートとして、元留学生を中心としたヤンゴンの「PSミャンマー」と提携して、活動を推進していくことも承認された。 5年後の2020年(平成32年)には、「日本ミャンマー友好協会・創設50周年」を迎えるため、原点に戻って、草の根の両国間の友好親善のために、今後の努力目標を確認した。

補 足 参 考 資 料

※ (一般社団法人)日本ミャンマー友好協会・45年の役員変遷・概念表 


[ 本部と東海支部 ]




※ 2009年度(平成21年度)より本部は東海に移転 ⇒ 新体制で協会再建に着手。

( 4役 = 会長:岩内健二、副会長:鬼澤浩二、専務理事:石丸富治、監事:中西峯毅 )

※(一社)日本ミャンマー友好協会・45年間の役員・会員・ミャンマー人

( 敬称略・順不同・斜体文字は女性 )

(1)  第Ⅰ期:1970年(昭和45年)6月「日本ビルマ文化協会」」及び「東海支部」設立 ~ 1972年(昭和47年)頃までの約2年間の創設・草創黎明期。

東海支部長:小菅信一(戦友会員)  事務局長:吉岡和雄(戦友会員)

役員と主な会員 : 浅井時二郎・近藤鐘永・山田元八・土井次夫・石塚寿男・小出實雄・小林義弘・河合實・永坂三夫・矢野静一・川瀬宗雄・中橋由蔵・吉田弥三郎・桜井三郎・石村卓・弥富喜三・鈴木節(「南機関長」故鈴木敬司大佐夫人)・稲垣清 (以上・戦友会員)

  岩内健二・日比野省三・丹羽宏・新美隆代・森川雅人 ら。(以上・戦後会員)

東海支部所属の主なビルマ人 : タンタンウィン・ニャントン&チチアウン・マウンマウンルイン・エイテイン ら。


(2)  第Ⅱ期:1972年(昭和47年)、東海支部の小菅支部長と吉岡事務局長が退任。以後、2000年(平成12年)までの約28年間に及ぶ「丹羽=岩内」体制の始まり。

(一方、日比野省三を中心として「青年部・学生部会」結成を試行したが、後年消滅。)

(新設された名古屋国際センターでの定例交流会を毎月開始。東海支部活動の最盛期。)

東海支部長:丹羽 宏   事務局長:岩内健二。

役員と主な会員 : 小菅信一・吉岡和雄・浅井時二郎・近藤鐘永・山田元八・小出実雄・小林義弘・河合實・川瀬宗雄・中橋由蔵・原田忠治・舟橋保定・川口秀雄・大竹徳夫・杉山良一・山本正輝・河合金雄 (以上・戦友会員)   /  日比野省三・栗原寿男・原田照子・川合陽子・松本雅道・新田義人・酒井喬平&ひとみ・村瀬一郎・桜井恒三郎・貴田厚子・井川英夫・佐貫将吉・新美隆代・鬼澤浩二・成田幸徳・加藤和代・新美鉄雄・新谷典昭・中山昭彦・丸山茂樹・水谷祥子・古城稔・今井正浩・篠田毅 ら。 (以上・戦後会員)

東海支部所属の主なビルマ人 : タンタンウィンオンマーチョ・マウンジー・チッスエ・チーウィン・キンチャイン・オンルイン・ミャーミャーウィン・ウィンナイン・チョーチョー・ミンニョウ&ナンダスィベビーアウン・タンゼンウー・タンオン&キンポンミンシィシィミンミンキンキンタンヌエニョニョルイン・タントンエー&ナンピンナンサンカン、ソーウィン・モンモンウィン・キンミャーエー・チョーテン&テテチッ・イエアウン・キンソーミン・モンモンタン・リンゾーモー&トゥトゥアウンゼンゼンウィン・ミンサン&タンタンアウン・タウンウィン&キンキンエートゥトゥチッパパソーキンリンカイン・ニッニッラッ・ゾーリンアウン ら。


(3)  第Ⅲ期:2000年(平成12年)、丹羽宏支部長・病気退任後、会長以下の新理事を含め、名古屋を中心とした友好協会唯一の本部組織に改編された約10年間。

(名古屋国際センターでの定例交流会を隔月実施。後に廃止し不定期開催に衰退。)

会長:岩内健二   副会長:鬼澤浩二   専務理事:石丸富治   監事:中西峯毅。

役員と主な会員 : 片山卓・杉本良巳・田崎央・松本雅道・酒井喬平&ひとみ・田中進・松井幸彦&愛子・近藤秀二・波多野秀之・原田照子・植田陽一・渡邉泰興・内木ふみ石河孝益渡辺佳代子伊左次絵美・野口義記・桜井恒三郎・浅井元彦・丹羽宏 ら。

(以上・戦後会員。 / 戦友会員はほぼゼロに。 )

東海本部所属の主なミャンマー人 : タンタンウィン・サンサンウィン・オンマーチョ・タンオン&キンポンミンモーモーテイン・ミンサン&タンタンアウン・タウンウィン&キンキンエートゥトゥチッパパソー・ニニラッ・ミョーラッエ・マーマータン・サイカインミョートン・タンゾートゥン ら。

(4)  第Ⅳ期:2011年(平成23年)頃からのミャンマー民主化政策転換以降 ~ 友好協会設立45周年を迎えた現在2015年(平成27年)までの約5年間。

会長:岩内健二   副会長:石丸富治   副会長: 松崎敦義   専務理事:片山 卓。

役員と主な会員 : 杉本良巳・田崎央・鬼澤浩二・中西峯毅・松本雅道・波多野秀之・野口義記・石田秀翠・安倍昭恵松崎幸恵松崎円香内木ふみ・小林路義・植田陽一・大井康重・埴渕久志・新美隆代・竹内嘉宏・植田陽一・置田和永・置田起美・近藤義男・近藤秀二・川本明彦・赤尾郁夫・木下幹夫(戦友会員)・松岡靖之・松岡素万子・渡邉泰興・杉原直・加藤惠・大田辰雄・矢沢行男 ら。

東海本部所属の主なミャンマー人 : タンタンウィン・エーナンダーウーワインワインチュエミャーシットゥ・タンゾートゥン・タウンウィン&キンキンエー・シュエトン・ワーナトゥ・シィシィ・マウンマウンタン・チェリーミョルインムムチョウ・タントンエー・チョーゼーヤー・エーゾー・テインサン・ケーカインルイン ら。