日本ミャンマー友好協会設立50周年記念『慰霊の旅』
日本が高度成長を遂げたばかりの頃の1970年3月か
ら9月にかけて、大阪府吹田市の千里丘陵で国際博覧会『大
阪万博』が開催されました。私達の協会は、その EXPO70
を契機として活動をスタートし、外務省の社団法人格取得や
役員構成などの準備期間に2年間かけて、ビルマから復員さ
れた方たちの熱い思いを受けて「(社団法人)日本ビルマ協
会」として発足しました。しかし当初は多勢で盛り上がって
いた協会も歳月が流れ、協会の設立にご尽力された方やビル
マをこよなく愛されていた戦友会員の皆様もほぼ全員が他
界されてしまいました。そして関西支部と関東支部が消滅に
至り、東海支部が新しく「(一般社団法人)日本ミャンマー
友好協会・定款第2条」に基づき、11年前の第36回通常
総会において『東海本部』移転宣言が承認され、正式な新本
部として再出発しました。そして唯一設立からのすべて協会
の歴史を築かれ、役員として取り組んでこられた現岩内健二
ヤンゴン日本人墓地参拝
会長の下で日緬友好の懸け橋として、設立当初の皆さんの思
いを抱いて継続運営がされてきました。
さて、そうした流れの中、今回この設立50周年の時期に岩内健二会長と松崎敦義副会長のお2
人が協会の代表として、「友好協会設立50周年記念・7泊8日『慰霊の旅』」に出かけられました。
≪
主な旅行日程と内容≫
2
月9日~10日 ビルマ戦線戦没者を慰霊
ヤンゴン国際空港にて、岩内会長が友好協会
の定例交流会で支援されていた元ミャンマー留
学生に出迎えられ、ダウンタウン「ホテル G ヤ
ンゴン」に夕刻無事到着する。
翌10日は、午前中ヤンゴンプレスを訪問し、
栗原富雄編集長へ協会からの「ミャンマー日本希
望の光基金」への寄付金を託す。午後は日本人会
図書館に立ち寄った後、現地カウンターパート副
会長である「イェトー社長」と今後につて打合せ
をし、ヤンゴン日本人墓地にてビルマ戦線戦没者
を慰霊した。また、戦後27回ものミャンマー慰
中央は友好協会の旗
霊の旅を続けられ、一昨年98歳で他界され、昨年日本人墓地にて厳かに建碑法要された元泰緬鉄
道隊員木下幹夫さんの墓前にも参拝する。
協
会
寄
進
の
手
水
鉢
社団法人日本ミャンマー友好協会
1999 年 2 月 8 日建立
元泰緬鉄道隊員木下幹夫さんの墓
現地カウンターパート副会長である「イェ
トー社長」と、「Yangon Excelsior Hotel」
にて、今後についての打合せ
ヤンゴンプレス編集長栗原富雄氏が
支援されている「ミャンマー日本希
望の光基金」へ寄付金を託す。
写真中央の女性が持っている「ビルマ日
記」は、岩内健二会長がラングーン日本
人学校に赴任されていた当時を帰国後ま
とめられた著書で、日本人会の図書館に
も寄贈されていて、ミャンマーを知る貴
重な図書になっています。
1
1日~13日 マンダレー・ザカイン
ヤンゴン・マンダレー間は往復フライトを利用し、上空から集落の中に白いパゴタの点在するイ
ラワジ・デルタの豊かな農村風景を楽しみ、2泊3日の日程でミャンマーの北部マンダレーからザ
ガインへと慰霊の旅をする。天候も良く美しい大自然をバックにしたご来光や日没、王宮を取り巻
くお堀に映る王宮の美しさに感動する。また市内では、飛び入りで学校を訪問することができ子供
たちから大歓迎を受ける。そして同じマンダレー管区の景勝地マンダレーヒルに登ると山頂からの
景色は言葉で表現できないような大パノラマで、おまけに美しい民族衣装を着たパオ族の人たちと
偶然に出会い、幸運にも一緒に記念撮影もできた。その後、隣接するザガイン管区に移動し、ここで
も目の覚めるような景観が広がるザガインヒルに登り、そこに鎮座する日本人が建立した慰霊碑や
仏塔群を巡り、それらすべて現地の人たちが守り続けていただけていることに感謝し、ねんごろの
慰霊をした後、尼寺で昼食をお呼ばれして、異国情緒たっぷりのご馳走に舌鼓した。(マンダレー
「
Smart Hotel」に滞在)
遺族会建立の日本パゴタ(仏塔)
現地校視察
マンダレー王宮
松崎副会長撮影)
日本パゴタ碑の建立由来(1976年建立)
(
1
4日 ヤンゴン日本人学校訪問・チャイティーヨー参拝
岩内会長は2014年11月2日
ヤンゴン日本人学校にて
に行われたヤンゴン日本人学校創立5
周年祭に、当時校長だった置田和永
0
氏(現在協会相談役)からの要請で歴代
の日本人学校教員の代表として来緬さ
れた。そして当日学校主催で行われた
第一部のミャンマー国立劇場で開催さ
れた日緬の文化交流祭に参加され、昼
間はミャンマー国立劇場で日本人五百
名、ミャンマー人七百名が集った日緬
文化交流発表会に参加され、夜の第二
部は会場を日本人学校に移動し、
学校の屋外体育館の仮設ステージに立
って、半世紀前のラングーン日本人学
校時代の懐かしいお話をしていただいた。また、ミャン
マー民主化の流れの中で置田校長在任中から年々駐在
員も増え続け、ここ数年間に在籍数は一気に3倍近く
に増え200名を超え、進出企業から寄付金を募集し
2
度にわたり新校舎を増築して大きく様変わりしてき
ている。現在は昨年赴任された東京出身の刑部之康校
長の下で、将来は国際舞台で活躍していく人材の育成
を目指して国際化教育がなされている。
その後、元ミャンマー留学生キンキンエーさん宅に
立ち寄り、懐かしいご対面。彼女の母は、涙を流して、
元留学生「キンキンエーさん」宅
最愛の娘さんが日本留学時にお世話になった岩内健二会長の訪問を喜ん
でくれました。
ゴールデンロック
ロンジー姿の松崎副会長
一方、松崎副会長もこれまで何回かミャンマーを訪問されているが、モ
ン州にあるミャンマー屈指の巡礼地ゴールデンロック(標高1100メー
トルの山の頂上にあり、落ちそうで落ちない不思議な直径7mほどの丸
い岩)はまだ一度も参拝していないということで今回その聖地に行かれ
た。なお麓のチャイティーヨーの町から登る方法は3通りある。①トレッ
キングとして自分の足で登る。②トラックの荷台に乗って揺れながら登
る。③2年ほど前にできたロープウェーで絶景を眺めながら登る。
1
5日 親睦会
16日 帰国
「(一般社団法人)日本ミャンマー友好協会」の現地カウンターパートの皆さんとの親睦会と、日本
に将来行ってみたいという夢を持っているミャンマーの青年たちとの交流会。岩内会長や松崎副会
長の貴重なお言葉をいただきました。また、懐かしい思い出話に花が咲きました。
日本ミャンマー友好協会50周年懇親会
MJBD日本語教室の生徒たちとの記念撮影
≪
日本・ミャンマー今昔物語≫
最後に今回の慰霊の旅を HP にまとめさせていただきながら
改めて東海地域とミャンマーとは深いご縁があることに気づか
されました。実は、ミャンマーにはウ・オッタマ僧正(1880~
1
939)という建国の父がおられます。19世紀当時のインドはす
でにイギリスの植民地となり次は隣国、そして1885年ビル
マ最期のコンバウン王朝が3度の英緬戦争で滅亡してしまいま
す。しかしビルマの人たちには、将来東の方から白馬に乗った
王子様が現れ、ビルマを必ず救ってくれるというボ・モージョ
(雷将軍)伝説が語られていました。幼少期に戦争体験をされた
ウ・オッタマ僧正は、きっと幼少の頃からビルマの独立を夢見
伊藤祐民とオッタマ僧正
ておられたことでしょう。そして1905年日露戦争で東アジアの小国日本が大きな犠牲を払いな
がらも大国ロシアを破るという快挙に勇気づけられ、憧れの日本に学ぼうと1910年に来日を果
たします。そして名古屋栄で松坂屋創始者
伊藤祐民が支援していたビルマなどのアジア留学生
伊藤次郎左衛門祐民と出会い、その後支援
-学生寮『揚輝荘』にて-
を受けることになります。幕末の吉田松陰
のようにオッタマ僧正の教えを受けた弟子
たちがミャンマーの英雄として教科書にも
出てくる30人の志士に成長していきます。
その中のナンバー1はアウンサン、ナンバ
ー2は後にビルマを社会主義に導いたネウ
ィンでした。2人はそれぞれ面田紋次、高
杉晋という日本名を持っていました。また
現在NHK大河ドラマ「麒麟がくる」のよ
うに日本軍大本営直属の南機関長に命ぜら
れた静岡県浜松市出身の鈴木啓司大佐が登場してきます。今でもミャンマーの歴史教科書にはビル
マ王国「コンバウン朝」の王宮をイギリスの植民地から取り戻した時の鈴木啓司大佐がビルマ伝説
のボ・モージョ(雷将軍)として登場しています。しかし鈴木大佐はアウンサンと交わした大東亜共栄
圏構想であるビルマをイギリスから奪還した後はすぐに独立宣言させるという方針は、大本営の方
針と違い、意見が対立して、結局鈴木大佐は上からの命令には抵抗できなく大本営から南機関の任
務を解かれ、アウンサンにビルマの独立を託し、日本に戻されてしまいます。当時の日本の若き将校
たちの中には鈴木大佐のように大東亜共栄圏構想を抱いて戦地へ赴いた将校らもいて、鈴木啓司大
佐はその典型的な軍人さんだったと言えます。戦後 BC 級戦犯としてビルマに移送されますが、ア
ウンサン将軍の一声で罪は全く問われませんでした。
今回の慰霊の旅は、日本ミャンマー友好協会が1970年に結成された当初の会員の皆さんの思
いをずっと大切にしてきた協会にとって、歴史に残る1ページとなりました。また現在私たちが享
受している日本の平和繁栄は、近代における欧米からの植民地化への圧力にも怯まず、日本の国土
を命がけで守ってくれた先人たちの汗と血と涙で築かれた礎の上にあることを改めて感じています。
1970年開催『日本万国博覧会・ビルマ館』
ホームページにも掲載しています岩内会長がまとめられました『創立50周年・沿革史』によ
りますと、大阪万博会場「お祭り広場」にて、ビルマ独立の英雄30人志士のお一人だったネ・
ウィン国家元首をお迎えして「ビルマデー」の式典が行われたということです。当日の会場には、
ビルマ戦線から帰還された兵隊さんが全国から各隊旗を掲げて約2000人が参集されました。
ビルマ館は上記の写真のようにたいへん立派なパビリオンでした。コンバウン朝時代の王宮を
思わせるような 7 層の塔を乗せた竜王船の形の展示館で、周囲に池がめぐらされ、あたかも池に
竜王船が浮かんでいるように見えました。 竜王船は、ビルマで 17 世紀から 18 世紀の王朝時代
に、王族が舟遊びや国内視察に使った双頭、双尾の竜を彫刻した双胴船で、展示館はこれを近代
的手法で表現し、薫り高いビルマの文化をしのばせ、文化遺産を生かした展示品にもなっていま
した。ネットで調べてみると、建物は地階部分が鉄筋コンクリート造、主構造は鉄骨造、その他
が木造で、木材はビルマ産材を使い、塔の部分などの装飾はビルマから送られてきた手工芸品で
した。竜王船は竜頭の首から上が鉄板製、尾部の飾りはチーク材の彫刻、胴部分は鉄骨の上にプ
ラスチック材が使われ、大部分がビルマで製作されという。 展示館のうしろには、別棟でビルマ
の田舎の伝統的な家を模したレストランが建てられ、川面に浮かぶ竜王船を眺めながら食事を楽
しめました。レストラン棟は地下が調理室、従業員室になっていました。
高度成長期真っ只中の古き良き時代、タイムスリップでもできれば、戻ってみたい時代ですね。