【保護者のみなさまより】
・五十周年行事はみんなが楽しめて、とても活気的でした。全体的な構成もよくできていて、大成功だったと思います。
・日本の文化を外国の人に知って頂く内容の取り組みに感心しました。
・長時間でしたが見入ってしまい時間を感じさせませんでした。気迫も伝わってきた感動的な50周年記念祭でした。
・日本人学校のパフォーマンスはとても良かったです。みんなで書いた大きな文字の言葉は子供たちの熱が伝わってきました。
・中学部と小学部5,6年女子による合唱はレベルが高く感動しました。女子の高音の美しさはもちろん、男子の低音の響き、そしてハーモニー、何度でも聞きたいです。
・先生ばかりに頼らず、みんなが自分の手で作り上げたという思いがとても良く伝わってきました。素晴らしかったです
・From the first part:stage performance ,through second part:concert,to the final third part:dinner reception,all the prigrams were organized well
I like kindergarten's star song.grade3-4's Ninja as well my favorite show - calligraphy performanse.
【ヤンゴン日本人学校50周年祭に出席して】
今回置田校長先生のご厚意でヤンゴン日本人学校の50周年記念祭に招待して頂き、感謝しています。 この行事に対する生徒の活発な動き、規律正しい行動等を拝見して、きを禁じ得ませんでした。 日本の小、中学校では、人間として持つべき相手の気持ちを理解する事や、我慢する事の不足が、生徒同士の苛め、更に苛めが昂じての障害事件まで起こしています。 またゲームに夢中での運動不足が問題となり、日本の文部科学省は体力の強化を重点科目に指定しています。
これに対してミヤンマーの日本人学校の生徒には,苛めもなく、生徒同士はあたかも兄弟のように、和気あいあいと、学校生活を楽しんでいるとの校長先生の話が、この記念行事を見て,はっきりと理解できました。 この様な楽しい行事を見て、子供時代の海外の経験が、子供の成長の中で大変重要なフアクターで有ると感じました。
ミヤンマーの日本人学校で学んだ生徒は、間違いなく健やかに成長し、日本の為だけでなく、世界の為に活躍する人に成る事は間違いありません。 皆さんミヤンマーの日本人学校で学んだ事を誇りに思い、健やかに成長される事を日本の片隅から祈っています。 楽しい行事を見せて頂き、有難うございました。
【YJS中学三年生の皆様】
今でもYJSの生徒の皆様が手作りで準備された50周年祭の様子が目の前に浮かんできます。見る人たちに感動を与える祭典でしたね。本当に素晴らしい祭典だったと感じました。どのように準備されてきましたか?先生方の立派なご指導もあったことと思います。でもどのような台本があっても、それを実行するあなた方一人一人の熱意がなければ、あのような感動は伝わらなかったと私は思っています。一人よりも二人、二人より三人、そしてさらに多くの皆がまとまれば思いがけない大きなうねりを作り出すことができることをあなた達は今回証明してくれました。この祭典の経験を通し学んだこと、50周年という節目の年にあなたがYJSで学べた幸せな機会を忘れず、さらに飛躍することを期待しております。
中学三年生の皆さん、残り少ないYJSの学び舎での生活、悔いのないようお過ごしください。
ありがとうございました。
⑴ ヤンゴン市内・人民公園の中にある国立劇場にて、児童生徒らによる16種の発表があった。単独の学校で、これほど多彩なプログラムの発表が成し遂げられるのは、驚きであった。
⑵ 現地の障害者施設の「ドリーム・トレイン校」や、「国立盲学校」の協力出演があり、日本人学校の現地理解教育の成果として、地域の教育施設との交流・連携があった。現地校の「マジャパフォーマンス」は、たどたどしいながらも「一休さん」の有名な「おいしい薬」のユーモラスな逸話を日本語で演じてくれて、好感が持てた。カレン民族舞踊は、多数の青年男女による華やかな踊りだったが、単調なダンスで少し長すぎた。半分程度で終わればベターだった。チンロン(ビルマ蹴鞠)は、ビルマならではの伝統スポーツで、高いレベルのテクニックに拍手が湧いた。また、私語もなく発表を長時間鑑賞してくれていたミャンマーの子どもの行儀の良さには、見習うべき点が多かった。
⑶ Go! Go! Ninja! は、跳び箱の授業を活かした非常に良い発表だった。他の低学年の発表も、可愛らしく健気な印象で、好感が持てた。
⑷ 中学部の書道パフォーマンスは、取り立てて珍しい内容ではなかったが、一生懸命取り組んでいた。夜のステージにも飾られて、50周年祭の記念として、『絆』の文字がいつまでも記憶に残る素晴らしい作品になった。
⑸ 日本からの協賛出演として、立命館大学生による「ダブルタッチ」(縄跳び)は、極めてレベルの高い発表だったから、全選手がユニフォーム姿で飛んだ方が良かった。また事前に各テクニックの解説やこのチームの過去の表彰記録(「世界縄跳び学生チャンピオン」を受賞など)の説明があった方が、更に説得力が増した。最後の岐阜・羽島太鼓連合の演奏は、ズンズンと腹に響くほどの圧巻だったが、これも事前の解説(日本の伝統芸能・神事や五穀豊穣)や、各パートの役割や演目の紹介があった方が良かった。そして、第3部の夜の「懇親会」にも演奏されれば、タンタマン・ロード校舎の夜空に響き渡って更に盛り上がったであろう。少し残念である。
⑹ 最後の生徒全員による「ふるさと」と「花は咲く」は、約150名による在籍数の多さに驚くと共に、歌に込められた望郷と祖国日本への哀惜が会場に伝わり、涙がこぼれる思いで聞き入っていた。3番のミャンマー語の歌詞も、ミャンマーならではのアレンジで印象的であった。更に、この合唱は、第2部の夜の「鎮魂のためのコンサート」でも歌われ、第1部の欠席者にも聞いてもらえた。
⑺ 全体を通して、校長以下の学校関係者が、綿密な準備・平素の練習の積み重ね・子どもの個性や運動能力に応じた指導など、優れた指導をされていることが、大変よく理解・評価できた。
⑴ 第2部は、ピアニスト&シンガーソングライターの石塚まみさんによる「鎮魂のためのコンサート」であった。
太平洋戦争の末期、中部ビルマのピィー(プローム)で終戦を知らずに、その3ヶ月前に無念の死を遂げた祖父・故後藤一味氏が、ビルマの戦地から幼い娘(石塚まみさんの母)に宛てた愛情あふれる絵ハガキと文面を基にして、石塚まみさん作曲の弾き語りをしながら、ビルマへの思いや平和について観客に語りかけるものであった。
故後藤一味氏は、当時郵便兵として、戦地の日本兵の手紙を日本の家族に届ける任務でもあったので、自分自身もビルマの民衆の暮らしや風景やパゴダなどを、生き生きと描いて、日本の愛娘に送ったものである。
ピアノに対面する形で座った置田和永校長が、故後藤一味氏からの文面を紹介しながらインパール作戦・南機関長の故鈴木敬司大佐とビルマ独立の父アウンサン将軍との師弟関係を超えた友情などを解説するナレーション担当をされた。そして何十枚もの絵ハガキが正面のスクリーンに映されるという設定で進行した。
ピアノとナレーションとスクリーン映像とが三位一体となって、第1部の密閉された劇場とは異なり、乾季の野外での臨場感あふれる発表となった。とりわけ、約300人の観客のほぼ全員が戦後生まれの中で、70年前に彼らが立っているこのミャンマーの土地で、激しく悲惨な戦闘・戦争が繰り広げられたこと、18万人もの尊い日本兵の生命が祖国に帰ることなく無念のうちにビルマの土に還っていったこと、更に多くのビルマ人や英軍や印度軍の兵士たちの血が流されたことなど、日本とビルマにこのような深い奇しき縁があったことなどに想いを馳せることが出来、しっとりとした雰囲気の中での素晴らしいコンサートであった。
⑵ 第3部の「懇親会」は、樋口建史・駐ミャンマー大使や日本人会長の挨拶、校旗贈呈の後、乾杯。しばらく歓談の後、4名のゲストがステージに上ってのトーク・ショー。最初に岩内健二氏が49年前のラングーン日本人学校に赴任して学校創設に苦労したこと、最初の卒業生を48年前に送り出したこと、そして50周年祭のお祝いとお礼などを話した。
⑶ 参加者は数多くの方々と盃を交わし、名刺を交換し、大いに交流を楽しんだパーティであった。合唱に参加した生徒たちも、大人に交じってジュースを飲んだり、ご馳走を食べたりして、50周年の祝宴に参加することが出来た。宴の途中には、バンド演奏や日本語を学び始めたミャンマーの若者のスピーチが入ったりして、更に宴を盛り上げた。
最後に、置田和永校長よりお礼のご挨拶があり、懇親会は和やかな中に閉会した。
⑷ 生徒と教師が一体となって、この50周年祭成功のために、手作りとは思えないほど充実した立派な発表ばかりを演出したのには、ただただ驚くばかりであった。
日本からの観客にとっても、「感動・感激の一日」を過ごすことが出来た。
このように50周年祭は、学校関係者の並々ならぬご尽力で、大成功の裡に幕を閉じた。