50年の軌跡


2015年(平成27年)1月作成
  作成者:ヤンゴン日本人学校・中学部三年生徒一同

  

【校舎のHISTORY】

カンベロード時代

昭和39年6月3日~昭和53年3月
(1964年~1978年:14年間)



・カンペ通りに面し、広い前庭を持つ赤レンガの二階建て。
・かつて、イギリス軍が使用していた。
・ハウスオーナーは、ビルマ独立後、初代米国大使となった故ウ・ソー・ニョンの邸宅を使用した。
・その後、「バルーチャン発電所」建設など、戦後賠償のためにビルマに派遣された日本人技術者の宿舎となった。
・現地採用教員3名、児童9名でスタート。

 昭和39年(1964年)6月3日、 世界で2番目の日本人学校がビルマの首都・ラングーンにできました。
 子どもたちに勉強を教えるために、 日本から小林敏次先生が派遣され、校舎探しから始めて、カンベ・ロードに最初の学校が創設されました。
 しかし、ビルマの国の政治が不安定な時代だったこともあり、学校がお休みになることが何度もありました。
 そのような政治的状況から、初代校長は、小田部謙一大使が就任しました。
 国語や算数などの勉強のほか、 全校遠足、親子遠足、臨海学習、餅つき大会、学習発表会と運動会を1日で行う文化体育祭などがあって、 楽しい学校生活を送っていました。
 そんな中、昭和47年(1972年)4月に、正式な学校名が「ラングーン日本人学校」になりました。

ルイス・ロード時代

昭和53年4月~昭和55年7月(1978年~1980年:2年間)

・小中学部だけで20名を超し、手狭になった。
・水などの悪条件も重なり、短期間で移転せざるを得なくなった。

昭和53年(1978年)、)校舎をルイスロード沿いに移しました。 この校舎には、雨の日身も使える雨天体操場がつくられ、体育の授業はもちろん、朝の集会やその他の行事にいろいろと使われました。 また、小中学生合わせて20名を越し、教室が狭くなったり足りなうなったりしてきたので、また、校舎を変えることになりました。 そうして、ルイスロード校舎は2年3ヶ月という短い時間で終わりました。

インヤーロード時代

昭和55年7月~平成2年8月( 1980年~1990年:10年間)

・入学金、授業料のドル払い開始
・PTA発足
・開校20周年式典
・政情不安、治安悪化から、5ヶ月間の休校


昭和55年(1980年)7月、インヤーロード沿いに校舎を移して、新しい学校生活がスタートしました。 この学校は敷地・校舎面積ともに広く、4つの校舎の中で一番大きい学校でした。 児童生徒数は、平均して30名弱、日本から来られる先生の数は6,7名いました。
 しかし、市民と政府との間で度々争いがあり、ついにはラングーンにいる日本人は日本に帰るように命令がだされました。 そのため、学校は5ヶ月間も休校しなければなりませんでした。
 学校が再開されても、危険な状態は続いたので、日本に帰った子供たちがなかなか戻れず,児童生徒合わせて8名というさびしい学校再開になりました。
 この年から、国名が「ビルマ」から「ミャンマー」に変わり、首都の名前も「ラングーン」から「ヤンゴン」に変わりました。同時に学校名も「ラングーン日本人学校」から「ヤンゴン日本人学校」になりました。
 そして、平成2年(1990年)8月に10年間学んだインヤーロード校舎を離れることになりました。

タンタマン・ロード時代

平成2年8月~平成13年1月( 1990年~2001年:11年間)

・校舎は、体育館をはさんで左右対称
・日本人会の施設「アネックスホール」も作られた。
・「学習発表会」を「チルドレンズ・フェスティバル」と改名し、国際交流が行われる。


周りには各国の大使館やミャンマー政府の建物などがたくさんあるところにタンタマンロード校舎はあります。 大使館や保護者、先生方など、たくさんの人の協力で、砂場、遊具施設、飼育小屋などがつくられ、さらには広い校庭を全面芝生にしました。 また、日本人会の施設である「アネックスホール(現アセンブリーホール」もつくられ、様々な学校行事で使われてきました。
児童生徒は、再開後の少人数から少しずつ増え、平成26年9月現在、幼稚部30名、小学部87名、中学部17名の合計134名となっています。
長年続けてきた「チルドレンズフェスティバル」や「弁論の会」を充実発展させ、フレンチ校とのスポーツや芸術での交流、サッカー大会など、 国際交流をより盛んに行うようになりました。
「ラングーン日本人補習校」から「ヤンゴン日本人学校」までの間、たくさんの人たちの努力が積み重ねられ、学校は名前も校舎も大きく生まれ変わってきました。
これからは、私たちがあとに続く人たちのために、この学校を育てていくことになります。私たちは、世界に目を向けた日本人として、日本とミャンマーがよりいっそう仲良くなるよう、努力していきましょう。