「ヤンゴン日本人学校・創立50周年祭」
の思い出

2015年(平成27年)1月作成
  作成者:ヤンゴン日本人学校・中学部三年生徒一同

               

Ⅰ.はじめに/
「ヤンゴン日本人学校」の歴史

・ 2014年(平成26年)11月2日(日)、いよいよ「ヤンゴン日本人学校創立50周年」を迎えました。

・ 50年前というと、1964年(昭和39年)になります。私たちにとっては、とっても昔のことで、全く想像がつきませんね。東海道新幹線が初めて走り、最初の東京オリンピックが開催された年、と言われれば、何となくイメージはわきますが・・・。それにしても、ものすごい大昔なんだなあー。本校の歴史は、すごく長いんだということを、改めてしみじみ思いました。

・ 当時は、「ミャンマー」が「ビルマ」、「ヤンゴン」が「ラングーン」と呼ばれた時代です。「ラングーン日本人学校」は、隣のタイのバンコク日本人学校の次に開校した、世界で2番目の古い学校・・・。すごく私たちは誇らしいです。50年前に、当時の大使館や日本人会の方たちが、日本の政府や文部省に働きかけて、一生懸命に努力されて、学校が創設されたということです。

・ 50周年祭に出席された岩内健二先生は、半世紀前のラングーン日本人学校に教師として教えたそうです。先生のお話によると、その頃からずっと軍人さんがビルマを統治して鎖国に近い時期が続いていたので、ここで働く日本人は少なかったとのことです。だから、当時は小中学生合わせて10人くらいの、今からとても想像できない小さな学校として出発したそうです。それでも48年前の1966年(昭和41年)3月に、初めて1人の小学生が卒業しました。この男子生徒が私たちの最初の先輩になりますが、計算すればその先輩は「還暦」、つまり60歳を越している訳で、私たちのお父さんよりも上になりますね。それだけの歴史があるんだなあー。

・ 50年と、ひとことで振り返ってみても、当然いろいろな出来事が学校にありました。「学校沿革史」を見てみると、やっぱり1988年(昭和63年)の、ビルマの民主化運動が、最も大きな事件で、毎日数千人のデモ隊が街にあふれ、兵隊さんに銃で殺されるお坊さんや市民の犠牲者が何百人と出ました。日本人学校も「無期限休校」となり、日本に避難・帰国する家族が多い、という大変な時期がありました。それでも大使館の人や学校の先生方の努力で被害を受ける日本人は、ゼロ。そして今のヤンゴン日本人学校は、立派に伝統が引き継がれています。「めでたし、めでたし」です。
 この時期に、あの有名なアウンサンスーチーさんがビルマの政界に登場しました。彼女は、何度も自宅軟禁されましたが、後に「ノーベル平和賞」を受賞しましたね。今は国会議員として、ミャンマーの発展のために頑張っていますが・・・。とにかく今のような平和な状況が続いて、私たちや後輩たちが安心して学校に通えるように、と願わずにはいられません。

・ そして、現在のヤンゴン日本人学校は、150人近い生徒に急に増えました。それは、4年前にミャンマーが民主化されてからです。すごい発展ぶりです。これから日本人は、どんどん増えて、生徒数も将来は500人くらいになりそうだと、置田和永校長先生がおっしゃっています。

・ 校舎は、最初の①カンベ・ロード、②番目のルイス・ロード、③番目のインヤ・ロード、と移り、今の④番目のタンタマン・ロードに移りました。タンタマン・ロード校舎は、移転してから24年目になります。だから50年のうち半分近くは、現在の校舎で生徒達は学んだことになりますね。

・ という訳で、私たちは50年という記念すべき年に、中学生として参加できたのは、すごくラッキーでした。それで、「50周年祭」をがんばって立派なフェスティバルにしたいと、先生も生徒も成功に向けて、猛練習に励みました。


Ⅱ 50周年祭の成功に向けて、
          準備と猛練習を開始しました!


私たちは昨年11月2日(日)の50周年祭のステージ・パフォーマンスのために、先生方と相談して1学期から準備を重ねてきました。

ただ昨年は雨季がなかなか終わらず、学校の体育館はうだるような暑さと湿気でしたが、私たちは演技も気持ちも揃えようと真剣に取り組みました。先生方も私たちのファイトに応えようと、熱心に指導をして下さいました。

あんまり一生懸命に練習を続けていたので、時には休憩を取って水分を補給するのを忘れてしまうほどでしたから、低学年児童に熱中症の子が出なくて良かったなあと、今では反省しているほどです。

・ お客さんに好評だった3,4年生発表の「Go! Go! Ninja!」では、中には体育や運動が苦手な子どももいたから、練習もすごく大変でした。鈴木智春先生にお聞きすると、子どもたちの日記には、「家の壁に向かって倒立の練習をしました。」とか、「友だちと遊びました。側転の練習もしました。本番でも成功させたいです。」などと書かれていたそうです。中には、跳び箱を跳べずに悔し泣きをする後輩もいたそうですが、根気強く練習を重ね、本番では見事成功させることが出来ました。

・ 他にも朝一番に縄跳びの練習を始める子どももいました。私たち中学部は、書道パフォーマンスのより良い発表のために意見をぶつけ合ったりしました。

・ このように、私たち児童生徒が、上から強制されるのではなく、自分たちが努力して、少しでも良いパフォーマンスを成功させたいという熱意の表れを、先生方も受け止めて下さり、複数のお仕事を抱えながらの忙しい中でも嫌な顔も見せずに、私たちの練習に付き合って下さいました。

・ そして、いよいよ私たち中学部「一筆入魂『絆』」の発表が近づいてきました。私たちは緊張しながらも「やってやるぞー」という気持ちで、本番直前の舞台裏に集まり、17人全員が肩を組み、本番のパフォーマンスにかける思いを互いに確認したり、今まで協力してきた仲間への感謝を述べ合ったりしました。

・ そしてステージでは、最高の仲間の絆で書き上げた『絆』の文字を完成し、両端の棹を高々と持ち上げて、1,200人のお客さんに作品を見ていただきました。

この作品は、第2/3部の会場でも披露され、雨天体操場に飾られています。

11月2日(日)、あの直前の肩を組み合った舞台裏と、ステージでの作品完成の一瞬は、これから私たちが「ヤンゴン日本人学校」を卒業し、互いにバラバラの長い人生を歩み始める後も、ずっと記憶に残るシーンになるのは、間違いないでしょう。

・ 素晴らしい経験を仲間と共有できた「ヤンゴン日本人学校・創立50周年」の感動。私たちは今、「ありがとう!」、の感謝の気持ちに満ちています。








Ⅲ 「50周年祭」の実施

・ いよいよ、11月2日(日)を迎えました。私たちは、それぞれの家族で車やバスを使って、半分は緊張しながら、また半分はワクワク興奮しながら、第1部の会場「ミャンマー国立劇場」(ナショナル・シアター)に、8時に集合しました。

・ 「ミャンマー国立劇場」は、ヤンゴン市内、あの有名なシュエ・ダゴン・パゴダのすぐ隣の「人民公園」の中にあります。ミャンマーでは、一応冷暖房システムの整った大きな建物です。11月は乾季に入っているのですが、この日は、少しドンヨリ曇った朝でした。

・ 生徒や先生や役員の方々は、みんなお揃いの「YJS(ヤンゴン日本人学校)」の文字と校章の描かれたTシャツを着て、嬉しそうに入場を待っていました。また、ミャンマーの運転手さんや、通りかかった市民の方も珍しそうに、この大きなイベントを見ていました。

・ いよいよ8時30分、午前中の「チルドレンズ・フェスティバル」の開始です。最初にカーテン隅に3人のお友だちが立って、出し物の説明を日本語・ビルマ語・英語で紹介する形で16種類の発表がありました。会場には、学校関係者以外の方や、日本からのお客さんも含めて、なんと1,200人という多数の来場者となりました。終わったのは、予定を大きく超えて午後1時過ぎになり、4時間以上の大熱演が続きました。